サルベージポイェム Pt.1
ベッター見返してたら、こんなんありました
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あけぼのの空気は冷たくて苦い
夜の延長戦は顔も洗わずに白けて
気がつけばゲームセット
かの姫から賜ったものは
うつつの世界では夢とも幻とも、不実とも紛い物ともいう
まとわりついたぬくもりを空気から守るためにスタジャンのジッパーを一番上まで上げた
けれど
金木犀の匂いが霧のように貴女を隠してしまう
世界一短い詩みたいな名前は
あたしに空いたうろの形をしている
貴女の顔さえ忘れてしまった
これでよかったんだきっと
(夜が明けて、手探りをしてもあたしはいない)
虚ろとは、つまり空疎ということなんです
主権者はお客様ではないのでは
スピーチの技術ってつまるところ相手に一番伝わりやすいやり方を模索して実行する事だというのは分かるし大事だと思う。けれども、それって相手に求める事ではなくて、伝える側が考える事なのではないかな。聞く側が、その方がいいよねって言いあうのは分かる。
しかし、相手にそれを求めた時点でその事柄について知る努力を放棄するだけでなく、自分の知性の限界を表明することに他ならない。
口を開けて待ってたら誰かがかみ砕いた確からしい説明を突っ込んでくれる訳ではない。それは自分の一票をお金に、政策を商品に類推しているように見える(三十年早く生まれてたら大量消費社会のなれの果てと書いてたかもしれないけれど、そこんところはよく分からないんだよな)。
話は変わるんだけど、FF氏に漢詩を作る方がいらして、ある日自分の境遇(有閑階級ではないからみたいなことだったと思う)への投稿に対して、勉強するのが面倒だからだろみたいに書いてたことがずっと心に残っている。その時も今も、その方のリプライに対して全く同意しているんだけど、世界にはそう考えない人も多いようだった。確かに、教養(というかバイクとかサッカーだって)に下積みを作るための時間は全人類の誰でも取れるわけではない。けれども、その一方で全く作れないと思っている人もやってみたら案外できるかもしれないのだ。
自分の持つカード(親や環境、仕事、持病)でやるしかないというフレーズはもう陳腐化しているだろうけれど、それはだから仕方ないよねと言う話ではなく、ではこれからどうしようかと考える材料のはずだ。
とはいえ、それはおいらが人に言うことではなくて(やり方が分からない人に信頼関係も作らずにいきなり言っても上手くいかないというのはまた別の話)、自分でそのような矜持を持てるか否かということだと思う。
とまれ、生まれながらの特性をできない理由することがある種の救いになることは分かるけれど、それは本当に自分が本当にどうにもできない事なのかと思うこともあるのだ。
そんな時にスピーチの技術云々みたいな投稿を見てほのかにそういう匂いを感じ取ったので、思ってることをぶちまけてみた。その人を攻撃する意思はない。けれども、波紋は思わぬところにも広がるものだ。
ではまた
Поко, поко
新聞
「利権」の問題をやたら指摘する人がたまにいるんだけど、それが私たちによく見えない最大の理由は関連記事自体が少ないからだと思う。なぜなら大抵は各地方ごとにあってその一つ一つは規模が小さいからだ。
ハコモノ一つとっても、出来た経緯や運営、管理、今後の維持について丁寧に追っていくことは難しい。
それに時間もない。
けれども、本当は丁寧に事を追った結果、全体像が見えてくるものであって、価値判断は一旦切り離して、実際にあったことを整理していく必要があるなぁと思う。
感情とイデオロギーは、しばしばそれを妨げてしまう。
それから、ツイッターだけ見て嬉々として感情を昂らせ、サラダ感覚で「正義」に加担する事をしてしまうこともある(譬えば、「利権」に立ち向かう誰々、的な)。
自戒を含めて書くけれど、恥を知れ恥を。
なんちゃって
いずれにせよ、知の積み上げという肉体労働が必要だなと思う。
それでは
Пока, пока
【追記】
いわゆる同和利権とそれに立ち向かうという政治家の話だけど、具体的に行われていたことと、どの時代までそうだったかを知る必要がある。
信憑性の判断は出来かねるけれど、同和地区の学校はクーラーが先についてたみたいな話から、同和地区に行くまでの道はわりに最近まで貧弱な橋一本でしか繋がってなかったという話まで聞く。
内地の人が前者のような利権から近年のアイヌ政策をそれに当てはめ、アイヌ政策の具体的内容を見ずに批判することが多いような気がしてならない。
個人的な話だけど、ウポポイの話を上げて、アイヌは国に守られていると言った人が知り合いでいた。
その人は決して非常識な人ではないけれど、ウポポイの慰霊碑への合同葬を拒んだアイヌ(後で返還を求めるアイヌ)がいる事や、古式舞踊の伝承が団体だけでなく、個人(家庭)で行っていてそもそも組織との関わりが薄い人々がいることを知らないのだと思う。
さる露悪的な覚書
少し露悪的なメモを残します。
得られる知識もない、ただの感想です。
ウクライナの勝利はあり得ない、という感じのタイトルの動画を見た。その中で、ロシアの「ユーラシア主義」についての易しい解説があった。
それについては、少し前(今回の侵攻よりはるか前)に佐藤優さんの本で読んだことがあった。
おいらの理解だと、ロシアというものはヨーロッパでも、アジアでもない、独自のユーラシア世界に位置する国である、ということが中核にある思想らしい。
ロシアはロシア人以外のたくさんの民族を持ち、ロシア文化の中には他の文化からやってきて根付いたものがいくつもある。そして、それら「外」からやってきたものは簡単にはロシア文化から切り離すことができない。
そんな国ならではの思想だ。
ソ連が世界初の社会主義国として、誕生し、数十年社会主義圏のリーダー的存在であったのは、そういった形で多くの文化が行き交うことが当たり前で、その延長線上に国際社会があったからというふうにおいらには見える。
しかし、ソ連は無くなった。
ロシアのユーラシア主義についてはほとんど知らないけれど、世界の終わりについて、どう考えているのだろうか?
少なくとも、社会主義には、最終的に人から人への搾取がなくなり、共産主義社会になるという終わりが掲げられていた(たとえ、それが絵に描いた餅であるとしても)。
だとしたら今回の侵攻で真っ先にロシア系住民を殺したことも、「ホロドモール」でウクライナの(ウクライナ人もロシア人もタタール人も)殺したことも筋が通ってる気がする。
多かれ少なかれ、彼らは大義において等しく殺すことを許している(もしかしたら推奨しているのかもしれない)。
ソ連はなくなったし、これからユーラシア主義がアメリカに対抗できる思想になったとしても、それはただの監獄だ。
おいらには、今回の侵攻で左の一部の人が即時停戦を求めても、ロシア自体に怒りを表明しなかったことが疑問だった。
しかし、もし彼らがあるイデオロギーの元にある、筋と「平等」をどこかで求めていたのならば腑に落ちる気がする。
おいらは、特に佐藤優さんの本を読んで、ロシアはとても興味深いと思った。しかし、正直一昨年の2/24以降、面白いと思ってしまったことを自己批判したい気持ちを持っている。
(どうでもいいけど、私は反米寄りだったけど、反米の対抗軸になるのは一帯一路だと思っていた)。
閑話休題。
とにかく、ウクライナ人どころかロシア人を殺すプーチンのロシアに怒っている。
ふわっとした文でした
ではまた
Пока пока
線を引いてみます
政治的な話をだらだらします。
なんでも許してもらえる人はお暇なら、そうでない方は線を引いていただければ幸いです。
といっても中身はないのですが。
あの侵略が始まってからわが祖国も防衛と外交に関してかなり大きな方向転換を余儀なくされたらしいことはニュースで見る。
更に、日本の左翼(リベラル、みたいな言葉を使いたくない)の間でも意見や行動の幅にかなり開きがあることはしばしば耳にする興味深い事象だ。日本の平和憲法を守ろうという立場の人が侵略行為の責任をウクライナにも向けている言説を何回か聞いた。これは自分の観測範囲の左翼の中ではわりに多い気がするけれど、国際法的に、倫理的に、プーチンへの停戦を求める人もいないわけではない(誰って言われると咄嗟に名前が出てこない)。
逆に右翼の方もあの侵略に対する言説の幅がかなり広い印象を受ける。左翼がリベラルに言い換えられる言語空間では右も左も境があってないようなものだから、今水面下では右と左の再編が起こっているのかもしれないと妄想している。
この前読んだ記事で、プーチンを支持する先進国のインテリは米国やEUに対する現状への不満をロシアに託しているという内容のものがあって、概ね同意するところではあった。
正直政治的な立場とそれにまつわる争いは自分には断片的にしか分からない。だから、自分には現状がこう見えるっていうことしか書かないけれど、二つだけ以下に続ける。
一つは、ソ連はもう崩壊しましたよご老体。
身も蓋もないけど、ソ連みたいな借金だらけの欠陥システムのデパートみたいな矛盾国家でも、かつてある種のアイコンとして果たした機能はすさまじいものがあったと推察できる。
西側諸国で福祉に力が入れられるようになったことは、ソ連の存在が背景にある革命を防ぐという効果があったという解説がされることはしばしば聞く話だ。また、サブサハラのアフリカをはじめとした旧植民地による独立運動や旧宗主国への影響を減らすための活動に支援をしたことは、ソ連に対するイメージを、「自由」の守護者というと仰々しいかもしれないけれど、いくらか上げたことは想像に難くない。
地球の反対側に派兵し、ジャングルを枯らして村を焼く超大国の存在も大きかっただろう。
その後継となった国の一つがロシアだ。それはソ連ではない。社会主義を放棄して分裂した国家のなれの果てだからだ。西アフリカでは追い出されたフランスに代わってテロリストと戦う支援をしているという話を聞くと構造は似てるかもしれない。けれど、それはあくまで利益だけの関係であって、そこには理念はない。
社会主義の理念はロシアという国の風土や民族性から生まれたものではないし、それは彼の国には継承されていない。
ロシアの文化の中では非ロシアのものが入り込んで融合しているという言説を見ると、ある種他者を受け入れる懐の深さみたいなものを感じるかもしれない。けれども、それはあの国にふわっと存在する空気であったとしても、国際的に流用可能なものではない。
赤旗という形だけの国際主義的代紋すら持たない国家なのだ。
一つの国の事情で動くことを隠そうとしない(隠せていない)国に「自由」の守護者(労働者の祖国としてのソ連邦)の幽霊を見出し、自国の独立のために秋波を送るような態度をとるべきではないと思う。
二つは、こんな1960年はいやだ。
日本の独立というと、60年安保の話はある年代以上の人、または関心のある人は出てくるところだと思う。
あれは気分(って書いたら怒られるかな)はパトリオット的な運動なはずで左翼の人だけが語るものでもないはずだ。
日本が次第に経済的衰退の道を進むのであれば(そして米国が「同盟国」へ介入しない路線をとるのであれば)、対米独立派(と仮に書きます)の考え方や行動は60年以前に戻る可能性があると推測していた。つまり広く対米独立派的な考え方が口にされる世の中になるのではないかと思っていた。
けれども、10年ちょっと前から空気が変わってみれば、日本は米国に支配されていると言うことはタブー視されなくなりつつあるような気がするけれど、その代わり陰謀論的に米国に原因を求め、あまつさえ他国に理想を見出すだけの、隣の芝が青い的理論で現状を否定する言説も次第に目にするようになった。
突飛なことを書くと、日本が(例えば地位協定の改正など)米国に強く出られないことは米国の(あらゆる利権団体や階級の総体としての)意向を内在化している(総体としての)日本人の責任だ。
だから、わずかでも自分のこととして考えられたらいいのにと思う。
最後に、自分の中でどうして左翼・右翼という言葉をなるべく使いたいかっていうと、一つの鳥の翼と考えれば片方だけでは飛べないなぁみたいなプリミチブな感想を持っているのですね。
だからかつての赤い代紋を心の中に秘めて、左側の翼をやろうかな(なかなかできないな)みたいに思うのでした。
ではまた(書け)
Пока пока
私の住所はソ連邦だった
やはり読んでくれてるとありがたいです!
わりに書いてる時は恥ずかしかったりするからいいねされてもなにか言ったりすることはないけれど、本当に励みになっています。
さて、ソ連の話は相変わらず進んでいません(´;ω;`)
こういうときはネタがないかと本を読むのですが、今日はアレクセイ・ユルチャク 半谷史郎訳『最後のソ連世代 ブレジネフからペレストロイカまで』という本を読んでいます(長くて何度も借りてるからいい加減手に入れたほうがいいかもしれないと思い始めている)。
おいらの知らないソ連のあるあるや空気感が書かれている所が面白いです。
その本では社会の文化や言葉をつぶさに見ていくことで二項対立的なソ連の体制の見方を超え、深堀りして行こうとしていて、じっくり読みたい本ではあります。
「想像の西側」の章はソ連の人が西側にどんな印象を得て幻想を膨らませていたか(そして実際の西側が見られるようになるとがっかりする所までセット)みたいな章何だけど、これって昭和の時代のショーウィンドウの中のアメリカみたいな話だなって思って笑いながら少し悲しい気分になった。
よかったら手に取って見て下さい(とはいえソ連クラスタの人はもうチェックしてるよなぁ)
ではまた
Пока пока!