貨物200便の手記

考え中のことを書きつけています

線を引いてみます

政治的な話をだらだらします。

 

なんでも許してもらえる人はお暇なら、そうでない方は線を引いていただければ幸いです。

 

 

といっても中身はないのですが。

 

 

 

あの侵略が始まってからわが祖国も防衛と外交に関してかなり大きな方向転換を余儀なくされたらしいことはニュースで見る。

 

更に、日本の左翼(リベラル、みたいな言葉を使いたくない)の間でも意見や行動の幅にかなり開きがあることはしばしば耳にする興味深い事象だ。日本の平和憲法を守ろうという立場の人が侵略行為の責任をウクライナにも向けている言説を何回か聞いた。これは自分の観測範囲の左翼の中ではわりに多い気がするけれど、国際法的に、倫理的に、プーチンへの停戦を求める人もいないわけではない(誰って言われると咄嗟に名前が出てこない)。

逆に右翼の方もあの侵略に対する言説の幅がかなり広い印象を受ける。左翼がリベラルに言い換えられる言語空間では右も左も境があってないようなものだから、今水面下では右と左の再編が起こっているのかもしれないと妄想している。

 

 

この前読んだ記事で、プーチンを支持する先進国のインテリは米国やEUに対する現状への不満をロシアに託しているという内容のものがあって、概ね同意するところではあった。

 

正直政治的な立場とそれにまつわる争いは自分には断片的にしか分からない。だから、自分には現状がこう見えるっていうことしか書かないけれど、二つだけ以下に続ける。

 

一つは、ソ連はもう崩壊しましたよご老体。

 

身も蓋もないけど、ソ連みたいな借金だらけの欠陥システムのデパートみたいな矛盾国家でも、かつてある種のアイコンとして果たした機能はすさまじいものがあったと推察できる。

西側諸国で福祉に力が入れられるようになったことは、ソ連の存在が背景にある革命を防ぐという効果があったという解説がされることはしばしば聞く話だ。また、サブサハラのアフリカをはじめとした旧植民地による独立運動旧宗主国への影響を減らすための活動に支援をしたことは、ソ連に対するイメージを、「自由」の守護者というと仰々しいかもしれないけれど、いくらか上げたことは想像に難くない。

地球の反対側に派兵し、ジャングルを枯らして村を焼く超大国の存在も大きかっただろう。

 

その後継となった国の一つがロシアだ。それはソ連ではない。社会主義を放棄して分裂した国家のなれの果てだからだ。西アフリカでは追い出されたフランスに代わってテロリストと戦う支援をしているという話を聞くと構造は似てるかもしれない。けれど、それはあくまで利益だけの関係であって、そこには理念はない。

 

社会主義の理念はロシアという国の風土や民族性から生まれたものではないし、それは彼の国には継承されていない。

 

ロシアの文化の中では非ロシアのものが入り込んで融合しているという言説を見ると、ある種他者を受け入れる懐の深さみたいなものを感じるかもしれない。けれども、それはあの国にふわっと存在する空気であったとしても、国際的に流用可能なものではない。

赤旗という形だけの国際主義的代紋すら持たない国家なのだ。

 

一つの国の事情で動くことを隠そうとしない(隠せていない)国に「自由」の守護者(労働者の祖国としてのソ連邦)の幽霊を見出し、自国の独立のために秋波を送るような態度をとるべきではないと思う。

 

二つは、こんな1960年はいやだ。

 

日本の独立というと、60年安保の話はある年代以上の人、または関心のある人は出てくるところだと思う。

 

あれは気分(って書いたら怒られるかな)はパトリオット的な運動なはずで左翼の人だけが語るものでもないはずだ。

 

日本が次第に経済的衰退の道を進むのであれば(そして米国が「同盟国」へ介入しない路線をとるのであれば)、対米独立派(と仮に書きます)の考え方や行動は60年以前に戻る可能性があると推測していた。つまり広く対米独立派的な考え方が口にされる世の中になるのではないかと思っていた。

 

けれども、10年ちょっと前から空気が変わってみれば、日本は米国に支配されていると言うことはタブー視されなくなりつつあるような気がするけれど、その代わり陰謀論的に米国に原因を求め、あまつさえ他国に理想を見出すだけの、隣の芝が青い的理論で現状を否定する言説も次第に目にするようになった。

 

突飛なことを書くと、日本が(例えば地位協定の改正など)米国に強く出られないことは米国の(あらゆる利権団体や階級の総体としての)意向を内在化している(総体としての)日本人の責任だ。

だから、わずかでも自分のこととして考えられたらいいのにと思う。

 

 

 

最後に、自分の中でどうして左翼・右翼という言葉をなるべく使いたいかっていうと、一つの鳥の翼と考えれば片方だけでは飛べないなぁみたいなプリミチブな感想を持っているのですね。

 

だからかつての赤い代紋を心の中に秘めて、左側の翼をやろうかな(なかなかできないな)みたいに思うのでした。

 

 

ではまた(書け)

 

Пока пока

 

 

私の住所はソ連邦だった

やはり読んでくれてるとありがたいです!

 

わりに書いてる時は恥ずかしかったりするからいいねされてもなにか言ったりすることはないけれど、本当に励みになっています。

 

さて、ソ連の話は相変わらず進んでいません(´;ω;`)

 

こういうときはネタがないかと本を読むのですが、今日はアレクセイ・ユルチャク 半谷史郎訳『最後のソ連世代 ブレジネフからペレストロイカまで』という本を読んでいます(長くて何度も借りてるからいい加減手に入れたほうがいいかもしれないと思い始めている)。

 

おいらの知らないソ連のあるあるや空気感が書かれている所が面白いです。

 

その本では社会の文化や言葉をつぶさに見ていくことで二項対立的なソ連の体制の見方を超え、深堀りして行こうとしていて、じっくり読みたい本ではあります。

 

「想像の西側」の章はソ連の人が西側にどんな印象を得て幻想を膨らませていたか(そして実際の西側が見られるようになるとがっかりする所までセット)みたいな章何だけど、これって昭和の時代のショーウィンドウの中のアメリカみたいな話だなって思って笑いながら少し悲しい気分になった。

 

よかったら手に取って見て下さい(とはいえソ連クラスタの人はもうチェックしてるよなぁ)

 

 

 

ではまた

 

Пока пока!

泣き言

ただの愚痴です。

 

今続けている作業に関してなのですけど、もしかしたら(もしかしなくても)誰かを怒らせるんじゃないかなって言うのがずっとあるのですよね。

 

無視されるのが実はまだましなのかもしれない、なんて思ってしまう。

 

 

でも、これをやり遂げると一つだけは確実にいいことがあるはずで、それは自分が読みたかったものが読めるっていうことなんだぞって何とか勇気づけて、だましだまし書いては消しを繰り返している。

 

 

 

煙草の量がまた増えてしまう。

 

ではまた

 

Пока пока

ネタの畑(または墓場)

ボンソワ

 

例によってメモ帳的なやつです

 

 

先日上げた短いの(ひょいひょいのひょい)は実はある程度プロットが出来てて、もしソ連のやつ書き上げられたら次はひょひょいのひょいの続きをちょぼちょぼ書きたいな、と思う

 

でも、また色々調べたりしなくてはいけないからどうなることやら。

 

(今書いてるのも含め)きちんと結末まで書けるのか見通しは立ちません。

 

 

ひょいひょいのひょいのボーイッシュな女性(とりあえずそう書きます)の話を書く上で家族周りのことをメインの一つとしたいのだけれど、その中で阪神教育事件のこと(ドープ!)に触れたいのだけれど、テーマがテーマだけに慎重にやり遂げたいなぁと思う。

 

まだ当事者の人もご存命だし

 

まして、おいらは日本という国の大多数を占める民族だし、書くなら藤川球児の投球並みの勢いで行くつもりになるまでは書いちゃだめだと思う

 

レーニングと勉強が必要だ

 

 

ではまた

Пока пока!

くう~疲れましたwww

ソ連の話がなかなか書けないので書いてみようって思い立った次第。

kakuyomu.jp

 

でも、これも結構時間がかかっちゃって、やっぱり手を動かさないとだめだなぁとおもいました(こなみ)

 

もし時間があれば読んでいただければ幸いです

 

それでは、また

 

Пока пока!

ディテールの墓場。あるいはポリコレ

また創作の話なんですけれど

 

 

 

ふわっと浮かんでは消えてを繰り返している由

 

そもそもこんな設定と流れ自体が間違っているのではないかという思いがぼやっとある。ていうか、まずメモにしかなってない……

 

なんてこったい

 

 

 

で、少数民族が出てくる話を書くつもりなんですけど、絶対にある種の偏見を産んだり助長したりするようなことはしたくない(わざわざ現実で起こっていることを創作においてまで追認する必要はないし)。

 

どうしてマイノリティを出したいかというと、つまるところおいらが出したいからとなっちゃう。

 

話にするためにはある種彼女を出す必然性を表現しなくてはいけない。

 

いくつか理由は挙げられるけれど、そもそも「いないことにするな」と言いたい、みたいな動機があるのですよね。

 

 

まとまらないな

 

 

今宵はこの辺で

 

 

また書く

 

 

Пока пока

案_あるいは墓場

んちゃ

 

 

例によって中身のないやつなんですけど

 

カミュの『異邦人』っていう作品がありまして、第二次大戦の前か最中くらいのアルジェリアが舞台なんです。その作品がわりに好きで、どこが好きっていうと、ひとえに主人公のムルソーという男がどこか引っかかるんですね。

 

彼はまあまあ仕事でも優秀なやつで、友達も恋人もいてそれなりに恵まれてるんだけど、非常にどこか空っぽにみえる所があるの

 

なんていうか、彼は社会でふわっとあるものとされている概念、広い意味での愛というものを信じていないんです

 

例えば、恋人が結婚したいって言ったら、結婚しようかなんて思ってるんですけど、それは彼女にそう言われて自分でも断る理由がないからなのです。

 

ちょっと何言ってるか分かんないと思うんですけど

 

 

で、彼はフィアンセを連れて友達と浜へ遊びに行ったときに、アラブ人(現地の人ですね)と銃やナイフが出てくるような小競り合いになってしまって、一度は浜のコテージに戻ったの。

 

けれども、その後で再びそのアラブ人の一人と岩場で出くわしてしまって、ポケットに入ってた銃で彼を殺してしまったんです

 

 

これだけ書くと、報復を恐れて撃ったとか、傷を負った友達への復讐とか動機と思われることが思い浮かぶと思うのですが、二部の裁判のくだりをみてから、もう一度そのシーンを読むと、どう考えてもそうではないように思われるのですよ

 

彼はその時熱中症になる寸前で、岩場の影に入りたかったから

 

それがもっともらしい答えにみえる

そういうふうに読めるのです

 

 

 

彼はその時その時の欲望に忠実で、ふわっとした愛(裁判のくだりであるように神みたいなものも含む)みたいなものが信じられないというか、そもそも全く理解が出来ないタイプの人間なんです

 

 

彼は最後の最後でそれを証明するかのように、神の愛を説く教誨師に食って掛かるんです

 

一見すると、神やイデオロギーではなく実存主義みたいな「今・ここに・自分が」いることが一番確かなことだということに重きをおくある意味近代人のようなの。

 

でも、そうではなくて、自分の死期を悟ったときに浮かんだ欲望、神の愛を自分に呑み込まないみたいなことに重きを置いているのだとおいらは思うのですよ。

 

まあ、解説の受け売りなのですが

 

いすれにせよ、それが恋人との関係を微妙にしたり、挙げ句の果てには裁判で心象が悪くなって死刑になってしまうのです

 

 

なぜ彼がそんなに引っかかるのかよく分からないのだけれど、一つだけ言えるとすれば、彼を通して人間の不思議を描いている気がするのです

 

 

 

さて、創作の案の話になるのだけれど、今考えているソ連が舞台の話の主人公をそんな人物にしたいなと思っていて、女ムルソーみたいのを書いてみたいと思います

 

 

彼女は(今の所)作中では殺さない予定ですが、彼女に何らかの情を抱く人が破滅していく様など書いたら面白いかもしれない

 

詳しく書くと創作できないからあれだけど、例えばある若い女性が幼馴染と偽装結婚をしていて、一応同じフルシチョフカの部屋に住んでいるのだけれど、夜になると彼は愛人の家に遊びに行っちゃうし、彼女は彼女で部屋をカップルに貸し出して小遣い(生活費かな)を稼ぐ。

で、彼女に好意を持った女性がいて、それを知ってまあ、とても怒るんだけれど、当人は本当の所どう考えているのか分からない。彼女を好いた女性はそこに神秘性を感じて(なんでだよ)、ますます惹かれてしまう

 

 

 

みたいな

 

甘々ではないか

 

やれやれ

 

 

 

では寝ようかな

 

Пока пока